1/7加瀬沼から多賀城へ(鍋山の会)

ひと月遅れの鍋山の会は加瀬沼から多賀城へ「多賀城の北門はなぜないか?」がテーマです。利府町と多賀城市の境にある加瀬沼の水は江戸時代以前多賀城で使用していました。(現在は利府町の水がめ)約1300年前の多賀城全盛期に、高台にあった国府の水はどこから確保したのか、そしてもう一つが現在復元中の南門、さらに東西の門に対し、北門はあったのか?

実際に歩いてみました。広大な加瀬沼公園の東のヘリ、堤下から南東方向へうっそうと茂る杉林を10分ほど行くと平らな面は六月地区という官舎跡。高低差は30mほどか。加瀬沼水位からは40m以上。モーターもポンプもない時代、どうやって水を引き上げたか、桶などで引き上げることはできたであろうが、むしろ、山裾の低いところに櫓を作ったほうが合理的ではないか?

そこからさらに東へ、歴史の時間差はあるが北門と東門が隣り合っている。道路上にある北門は役所からの出口、東門は多賀城全域からの東の出口と考えられる。城に囲まれた本来の北門はない。北の出先機関であった多賀城は蝦夷との最前線。北から攻められる門をわざわざ作るはずはない。何せ2回も消失させられたのだから。

甲子園一個分は入る福岡の太宰府政庁跡、地理的に7世紀当時の日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口も多賀城跡と同様に北は山に囲まれている。多賀城政庁前の東北の拠点、仙台郡山遺跡は東西300m、南北600mある城柵だが塀どころか門さえも今となっては発掘できない。

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