3/5 七北田川はなぜ河道を変えたか?(鍋山の会)
中世の七北田川は湊浜(七ヶ浜町)で太平洋にそそいでいた。湊浜は中世の津であった。今回はそんな七北田川の旧河道跡を調べ、歩いてみました。まずは江戸時代の河道はどこで東に曲がったか?その跡が多賀城関合付近に確認できました。中野堰からさらに下流を歩き、南関合と北関合付近から東にそれ、北に北上し高橋付近をほぼ東に流れ、六貫田遺跡付近で砂押川に合流するコースです。(下の地図参照)
江戸時代には鮭が漁業上重要で、七北田川では、寛永13年(1635年)に下流の田子村と対岸の福室村で鮭留をめぐる紛争が起きた。藩の史書によれば、この年より十余年前から田子村が鮭留を認められていたところ、藩吏の岩崎三十郎が福室村に鮭留を認めた。ここから両村の紛議がおき、岩崎は仕方よろしからずという理由で11月2日に追放され、福室村の鮭留は否定された。鮭留は鮭の遡行を妨げて獲る仕掛けで、他の場所での漁獲量に影響するため、争いが生じたのである[5](仙台市史通史編2)
少し横道にそれたが、この付近は河口に近く、砂が蓄積され、仙台城築城に伴う海上輸送の妨げになってしまった。そのため,河道をまっすぐにし、途中から苦竹方面に米などの物資輸送に適したものに修正した。名取川や阿武隈川の河口は一大物流拠点であり、七北田川もそれに沿って河道修正をしたものと考える。中の地図は現在のもの七北田川の旧河道予測図を記入。下の写真は1945-50頃(国土地理院)
古代・中世には岩切を過ぎたあたりで東に折れ、現在の砂押川を合わせて現在より約4キロメートル北の七ヶ浜町湊浜付近で海に注いでいた。江戸時代初期(寛文年間)に流路変更が行なわれ、ほぼ現在の位置に河口が移った[4]。1670年(漢文10)七北田川を蒲生の浜に付け替えたため、古くからの川筋は水田や沼地に代わってしまった。(仙台市史通史編2)
大量の流砂により河口の位置は不安定で、昭和初期には海に出る直前で左に直角的に曲がり、現在より約1km北で海に注いだ。蒲生干潟はその当時の河道の名残りである。その後仙台港の建設にともない、現在の直線的な河道に変更された。
湊浜は七北田川の旧河口
さて、次に向かったのは旧河川の最終地七ヶ浜の湊浜。薬師堂横穴群など崖の部分には遺跡がいっぱい。この先、湊浜が昔の七北田川の河口湊浜だ。
さて、最後は現在の七北田川の河口。ここも昭和初期までは蒲生干潟の北側に曲がって海に注いでいる様子がわかる。幾多の変遷と、大震災を経て現在の河口となった。